具本昌「長い午後に 無数の僕を追い求めて」
寄稿・本尾久子(Curator/Editor)
具本昌(クー・ボンチャン)と初めて会ったのは、90年代の初め頃だったと思う。クーさんも私も記憶が曖昧なのは、その時に相談したはずの現代美術のコンテスト審査員か展覧会の仕事が、何らかの理由で実現しなかったのだろう。唐招提寺の大改修を記念する行事の一環として、世界の10人のフォトグラファーに鑑真和上像を撮り下ろしてもらった2001年のプロジェクトを除けば、互いの活動をそれとなく報告しあい、彼の個展会場や私のギャラリーで顔を合わせるなど、淡々とした交流が続いてきた。
クーさんがドイツ・ハンブルクでの6年間の留学を終えて帰国した80年代半ばのソウルに蔓延する抑圧的空気は、90年代に入ると急激に開放へと向かう。韓国ではアートギャラリーが立て続けに開設され、彼自身も、堰を切ったように精力的に作品発表を再開する。洗練されたデリケートな感性は、美術界にとどまらず広告業界をも惹きつけ、クーさんは、ハイスピードで韓国写真界の牽引者に登りつめ、名実ともに国際的な評価を獲得した。
日本との繋がりは、この写真集に収められた作品群を撮り始めた1985年からだった。ドイツ時代に強い影響を受けた写真家André Gelpkeとの縁で、クーさんはドイツからの帰国の途上トランジットで日本に立ち寄り、PPS通信社のカーシェンバウム社長と初対面した。すぐに「A Day in the Life of Japan」という企画に招聘され、韓国の政情でクーさんは帰国後パスポートが更新できなくなっていたけれど、カーシェンバウム氏の尽力により再び日本を訪れ、会場で作品のプレゼンテーションを行なった。これが評判を呼び、翌日には、細江英公さんの招きでより大きな空間で大勢の人々を前に自作を上映する機会を得る。この時の客席の反応は素晴らしいもので、クーさんに、ドイツに戻ることを夢見るのではなく、韓国で精一杯努力し闘おうという決意をもたらした。細江英公、桑原史成、濱谷浩、橋口譲二――尊敬に値する写真家たちとの印象深い出会いがあり、ヨーロッパとは異なる独自の写真文化に触れたクーさんは、今もその時代と人々への感謝の念を隠さない。
森山さんの写真を見たのは、もう少し後だったのだろう。知り合って間もない頃、クーさんは森山大道の写真がとても好きだと言った。その頃はクーさんはすでにコンセプトに基づき秀麗な世界観を展開する作品の発表を始めていたが、自在な森山大道の重く暗いスナップ写真から漂いだす情感と共振する何かが、クー・ボンチャンの中にはあったのだ。
2001年、森山さんが教鞭をとっていた写真学校に在籍する韓国人学生を通じて、クーさんは個展会場に森山さんを招き、森山さんが応じて訪れたことが初めの接点となり、2003年のカルチェ財団での森山大道展オープニングにクーさんの姿があった。同年ヒステリック#9としてクーさんの写真集が刊行されたそもそものきっかけを、綿谷さんとクーさんを引き合わせることで作ったのは森山さんだ。
ZEN FOTOでの展覧会開催にあたり、写真集の編集者として関わってもらえないか、とクーさんからの連絡があったのは、2019年の春頃だった。プロデュースにはZEN FOTOのボニーさんが立ち、デザインは伊野さんが手がけるということも魅力的だったし、長いがけっして濃密とはいえない交流をそろそろ実らせても良い頃合いではと思ってくれたことが素直に嬉しかった。程なく、作品画像が大量に送られてきた。モノクロームの35ミリネガフィルムを使って、80年代のソウルの路上で撮ったスナップショットだった。これまでに、一部を発表したことはあったが、本格的に編み発表するのは、今回が初めてという。
一枚一枚を丹念に見ていくと、地面でとぐろを巻くチェーンの塊、防犯用の尖ったワイヤー、ショーウィンドウのマネキン、破れたポスターなど、森山さんの写真に登場する被写体が数多く見出された。ある意味、私の中で、森山さんとクーさんの写真が繋がった。同時に、森山さんが惹きつけられてきた被写体に、なぜこの時代のクーさんがレンズを向けたのかと問うのは意味をなさないと気づく。むしろ惹きつけられたのは、空気や距離感を通して感じるその違いを考えることだった。
80年代の圧政の元で自由な表現活動は抑え込まれ、パスポートの交付を差し止められて、写真を経済のよすがとすることができず、クーさんの韓国での生活は困窮した。ヨーロッパの美術教育の現場で、制作能力を高めると同時に自己実現の過程を他者と共有するプロセスを学び、自らの繊細な美意識を作品に注ぎ込むすべを体得したクーさんの目に飛び込んできたのは、不自由と不穏な気配に包まれた粗野で暴力的な破壊の痕跡だった。閉塞の荒野で、クーさんは辛抱強く、心中に忍び寄りかねない諦念や落胆などの不純分子を排除する、自浄作用の手段を探した。カメラを携えて街を彷徨(さまよ)い、ありとあらゆる場所にレンズを向けたのだ。第3の眼であるカメラは、ときに盾となり、ときに銃ともなっただろう。
「自分自身を見つけようと試みたのだ」とクーさんは言う。自身を含めた現実を客体視することに努め、観察者の視座で歩き、荒廃の蔭間から蜃気楼のようにたちのぼる希望の放つかぼそい光を探し求めた。
1960年代に始まるキャリアにおいて、1ミリも動じることのない森山さんの写真家魂は、心底敬服すべきものだ。アナログカメラからデジタルカメラに持ち替えようと、フィルムから電子光学装置に移行しようと、森山さんは写真の人だ。映画の35ミリフィルムを暗所で切ってカメラに装填し、印画紙も現像液もなくなれば日光と卵の白身と酢で写真を作ると言っていた森山さんは、デジタルのノイズを使いこなして外界の断片をスキャンし続けている。大樹は、枝葉を風にしならせても、根幹を大地に張り巡らし不変を保つ。五所川原、遠野、松島、北海道の開拓民、サンルウ、ハワイ、ブエノスアイレス、etc、etc 写真や歴史や民俗学や文学の造詣と好奇心の赴くまま森山さんの行く先々で、常に都市の混沌が渦巻いている。
クーさんは内奥のニルヴァーナへの旅を彷徨い、森山さんは矛盾も葛藤も不条理も外界に蠢(うごめ)く全てを引き受けて擦過を繰り返す。森山さんの写真を縄文に、クーさんの写真を弥生にたとえるのは、短絡に過ぎるが、言い換えれば、森山さんの写真は臓腑に響き、クーさんの写真は身中を行き渡る神経を揺さぶる。
年齢を経てもどれほど脳と視覚の鍛錬を重ねても、彼らの感度に到達することは私には最期までできないだろう。とてつもなく強靭で優しく、どうしようもなく愛おしくて、たまらなく哀しい世界。生の傍らに寄り添う死者の国。記憶以前の時間と息づいては去ったものたちの呼気が、現在と交錯し未来へと溶け出していく。ファインダーが切り取る世界の一断面から、果てなく伸びるトンネルの入り口が見る者に指し示される。写真を撮り続けて精神の自由を与えてくれる二人の写真家に、私は深く感謝する。
何ヶ月か前、クーさんは「もしも僕が突然死んだら、集めてきたモノや丹精した場所はどうなるのかな」と笑った。名前や権利などどうでもいいのだなと微笑ましかった。80年代の作品群を、彼はなぜ今本にまとめるのだろうと考えながらその場面を思い出す。その目はなるようになるさと言っていた。とどのつまり、在るは無いと同義らしいよ、と。80年代に探した自分を一旦解き放って新たな旅に乗り出そうとする彼の直感の船に、乗り込んでよかった。クー・ボンチャンを再発見できたのだから。
穏やかで柔和でいつも口元に笑みを浮かべるクーさんの芯の炎は青白く燃え、絶やされることがない。写真のこととなると、決めたら妥協せず、ニコニコしながら「NO」と言う。そこがいい。信念を曲げず、思索し直覚し地球上を飛び回り、今もまだ自分を探し続けている。
長い付き合いだが、言語の壁もあり、何より写真が雄弁だとも思い、クーさんの生きように必要以上に踏み込んだことは一度もなかった。森山さんがこれまでに依頼に応じて書いた一人称のエッセイが、国内外の研究者たちにとってどれほど重要な役割を果たしているかを思うにつけ、そろそろクーさんもまるごとクー・ボンチャンの手記を書いてみてもいいのでは。そんなことをふと考えている。
(文中、時々敬称略)