Mo Yi - Eyes that embody ever-changing China
2015年4月7日~4月22日まで、禅フォトギャラリーにて中国の写真家・莫毅の写真展80年代第1期写真展:「父親」、「風景」を開催し、最終日のクロージングパーティにてスライドトークショーを行いました。以下、一部のみとなりますが、スライドトークショーの内容をご紹介します。
また、莫毅写真展80年代第2期「莫毅:1987-1989」は2016年4月9日~5月11日まで開催します。第2期の写真展では、莫毅のキュレーションによる「騷動(別名:我虛幻的城市)」(1987)、「1m, 我身後的風景 (1m、後ろの風景)」(1988)と「搖蕩的車廂(揺れ動くバス)」(1989)シリーズを紹介します。展示に併せて、禅フォトギャラリーより莫毅写真集『莫毅1983-1989』を刊行します。
司会:アマンダ / 編集:小出彩子
司会:莫毅さんは1958年、中国・チベットに生まれました。今は北京に住まれていますが、82 年に天津に移住して、その時から写真を始めました。もともと彼はサッカー選手だったのですが、82年に初めてカメラを触り、写真を始めたんですね。彼が初めて日本のメディアに取り上げられたのは、94年5月号の『アサヒカメラ』の増刊号、「誰も知らなかった中国の写真家たち」という特集です。その時に写真家の北井一夫さんが編集部の方と一緒に中国に行き、写真家たちを訪ねたのです。その後また96年にNHKの「中国紀実写真-中国の今を撮る」というドキュメンタリーの番組でも紹介されています。98年、NHKの「中国文化的新浪潮」(中国文化のニューウェイブ)でも取り上げられました。
今回の写真展は「80年代」というタイトルですが、1987年を分岐点として写真展を二回に分けました。今回は、87年までの作品を展示しています。莫毅さんが活動を始めてまもなく、80年代に撮った作品です。写真家としての33年という長いキャリアの最早期の作品で、「風景」と「父親」というシリーズです。二回目の写真展は来年を予定していますが(2016年4月9日~5月11日)、その時には87年〜89年までの作品、代表作の「騷動(我虛幻的城市)」シリーズと「風景」、「搖蕩的車廂(揺れ動くバス)」を紹介します。 それでは、莫毅さんに80年代の作品について語っていただきたいと思います。87年がどうして彼にとって重要な一年だったのか、などについて語ってもらいましょう。莫毅さん、スライドショーを始めてよいでしょうか?
莫毅:僕が写真を始めた頃は、中国にとって特殊な時期でした。1949年から80年まで、数十年間、中国には文化がありませんでした。政治的な問題があり、発展することができなかったんです。49年から76年まで、何度も政治的なムーブメントが興り、社会に強烈な影響を与えました。この数十年間の政治運動で命を落とした人は数千万人にものぼります。同時に中国には写真がありませんでした。自由表現のカルチャーが無かったのです。文学の創作だったり、絵画だったりがなかったんですね。政府のために作られるといったことはありましたが。毛沢東が1976年に亡くなってから状況は随分と良くなりました。私は82年頃に写真を始めました。僕が写真を勉強し始めた頃の中国の写真の状況としては、写真家たちは、綺麗な風景や花を観た時にそれを写真に撮って「わあ、綺麗な風景だな、花だな」といったような状況でした。何故かというと、76年頃までは中国の人は、雑誌やテレビなど、メディアで風景を観ることがなかったんです。政府のための映像や写真くらいしか見ることができなかったんです。80年代になって、思想を持った文芸青年といったような人たちが出てきました。しかし彼らはカメラを持っているわけではありませんでした。まだしばらく、自然の風景、田園だったり、花だったりを撮っている人が多かったのです。
84年に西安で2人の写真家が殺されました。女性の裸を撮ったことを理由に逮捕され、処刑されました。82年1月に私は写真を始めました。文学が好きだったが、私は文学では上手く表現することができなかったので写真を選びました。カメラで写真を撮ることを通して、自己表現できるかな、と思ったのです。中国では、2000年代に入るまで、写真家たちは綺麗な風景を撮るために、写真を撮っていました。でも、私は「良い写真」を撮りたいわけではなかったのです。写真を勉強する目的のひとつに自己表現がありました。私と似た写真家は2000年代に入るまで少なかったと言えるでしょう。
今回禅フォトギャラリーでは「風景」と「父親」というシリーズを展示しました。「風景」というタイトルは、後になって写真を整理している時に付けたものです。当初、私はむしろチベットの本当の自然、本当の風景、を撮りたいと思っていました。しかしながら82年に都会の天津に移ることになりました。そこでは、人や車が忙しく往来していて、私と風景の間にいろいろなものが入り込んできました。わざわざ田舎に行って自然を撮ることもできたでしょうが、風景を探すために、住んでもいない田舎に赴いて写真を撮るのはリアルではないと思いました。それは私にとって意味がないことでした。こういった考えを持っていたことが、私を当時の他の写真家と大きく異なるものにしました。当時の、特に2000年代に入るまでの写真家たちは、田舎に写真を撮りに出掛けていました。僕が80年代の十年間、天津で撮影した写真は、おそらく当時唯一の[都会に住む人の]身の回りの風景の写真、かもしれない。
85年になって「父親」シリーズを撮るようになりました。僕にとってコンセプトのもと「シリーズ」として創作した初めての作品です。
スライドに映っている絵画作品は、羅中立が80年に発表した「父親」という作品です。 作品はすぐに人気を博し、有名になりました。当時の若者の父親世代の人たちのリアリズム、父親世代のポートレートです。哀しみをこらえる優し気な顔を描いています。一般の人たちにとって非常に魅力的な作品ですし、政府からも良い作品だと思われていました。皺までを鮮明にとらえるリアリズムの作品としては、中国初めてのものでした。政治家などの大物のポートレートが描かれることはあっても、最下層に位置する農民このように大きく描かれることは、それまでにはありませんでした。人気の理由として、作品が描いているものが、当時の中国の国民と関係性の近い世界、ということがあります。80年代の日本にこのようなポートレートの作品があったら、コーラを飲んでいるイメージになっているかも知れませんが、この作品では茶碗を持っています。非常に苦しそうな顔をしています。当時の父親世代の苦しみを、優し気な顔のイメージで表現しています。この作品には批判性もありますが、作品が政府に認められたのは、この人物が苦しい、貧しい生活をしながらも我慢して頑張り、それでもなおかつ優しい表情をたたえているという、ある種理想的なイメージだったからだと思います。しかしながら80年頃のある日、私はこういったイメージは好きじゃないと気づきました。彼らの思想は環境と社会変化に影響されて、異常なものになっている。私自身も街に出掛けて、こういうモチーフを探して撮っていましたが、羅のイメージとは正反対のイメージでした。僕が85年に撮った「父親」の写真に写った目を見ると、異常な思想の変化によって、普通の人間ではなくなっていることが分かります。
この頃は望遠レンズで撮っていました。何故かと言えば、僕が写真を始めた82 年から85年ぐらいまでは、僕の写真に対する認識が限られたものだったからです。
しかしながら、1985年頃、今まで自分で撮ってきた作品を振り返ってみて、「何かが足りない」と思いました。いろいろと自問し、反省しました。「写真の真実性は何だろうか?」、「写真は芸術だろうか?」などと。あの時期は苦しかったです。僕にとって芸術は本来、創作することで自分を癒すものでした。「写真を撮って他人に見せなくても、自分を癒すことができるか?」とも考えました。その頃は、写真に対して満足できなかったんです。写真を撮るプロセスは短いからです。ピアノを弾く場合には、一曲を弾くためにそれなりの時間がかかるでしょう。その曲の始まりから終わりまでの時間は、僕自身が音楽の世界に入ることができる。でも、写真を撮る場合、シャッターを押せば終わってしまう。ワンショットを撮って次に移りますが、それらの二つのシーンに関係性は無いかもしれない。自分の表現したいことが上手く表現できなかった。特に、時間の流れを上手く表現できなかったというのがありました。苦しみ、悩み、あらためて自分の撮り方について考えたり、反省したりしました。
今回、この時期のシリーズの展覧会を企画してくれたマーク、アマンダに感謝しています。87年をこえると自分の写真が全く違うステージに移行してしまうので、この時期の作品を展覧会というかたちで見せることができて良かった。僕自身でもすごく好きな、大切な写真です。今振り返ってちょっと気に入らないのは「撮り方」です。伝統的な写真の撮り方を続けてしまってはいけないだろうと思っています。82年頃に写真を始めてから87年まで、努力して率直な撮り方で写真を撮り続けました。でも、コップの容量がこのくらいで、これ以上の情報量、いわば私の表現、を入れると溢れてしまう、ということは分かっていました。
第2期の展覧会が、来年開催される予定です(2016年4月9日~5月11日)。1987年以降の作品が展示されますので、その時にまたご覧いただければと思います。87年はどんな年だったのかと言えば、87年頃、中国の武漢という都市で、大勢の大学生が街に出て集会やデモを行っていました。87年頃にはさらに多くの学生が天安門広場で集会やデモをしていました。当時、中国人はよく銀行に行き、お金をおろしていました。政府に対して信頼が無く、政府に自分のお金を取られる前に引きだしておこう、という考えによるものです。かなり不安定な社会でした。国民は政府を信用していませんでした。89年に天安門事件が起きましたが、これは晴天の霹靂ではなく、それ以前から、社会に揺れ動く雰囲気がありました。
私はこの時29歳で、すごく不安定な気持ちでいました。当時自分が表現したいことも、伝統的な写真の撮り方では足りなくなっていました。87年の「騷動(我虛幻的城市)」シリーズでは多重露光を使いました。写真を見ると固定された画面ですけれども、90〜100ショットのイメージが重なっていて、ブレているような感じを受けると思います。このシリーズには、「都会をシューティングする」というサブタイトルがあります。
このシリーズ「1m、後ろの風景」(上図参照)は初めての「芸術行為」の作品だったんです(1)。
当時の中国には髭を生やしている人はいませんでした。髭があればすごく注目されました。また、カメラを持っている人も少なかった。カメラを持っていれば、香港人か台湾人かと思われました。ところが私はその二つの道具を持っていました。ひとつは髭、もうひとつは日本製のカメラです。冬で、コートを着て、カメラを自分の首のうしろに固定しました。うしろの人は絶対に、私の首にカメラが固定されていることに気づきます。カメラは首に固定して、ケーブルレリーズでシャッターを押して、写真を撮っていたんです。当時、大都会には、いつも賑やかな場所がありました。そこに行って、カメラを固定して、人ごみのなか、5歩進んで一回シャッターを押す。それによって、自分に距離の近い人の写真を撮ることができた。例えばこのおじさんと僕の距離はすごく近くて、1メートル以下だったかも知れない。このような写真には二つの状況があります。ひとつは、画面の真ん中に写っている人は僕のカメラのレンズを見ていなかった。彼らの目を見ると、彼らの目の前に空気しかないような感じがした。僕らは、本当は同じ方向に歩いていたんです。もうひとつは、後ろの人が僕のレンズを見たんです。シャッターの音が聞こえたかもしれない。右の人の目を見ると、分かるんですけれども、僕のレンズを見ていたんですね。驚いたかもしれない。
当時は、行為、アートとして、実験的なことをいろいろとやってみていました。カメラを首の後ろに固定した時点で、周りの人は「この人絶対おかしい」と思うのに、ただ疑問を浮かべた顔をしているだけで、特に反応することはなかった。[この撮り方をした]目的は最初、注目されることだけだったんですが、結局、どんな写真になるのかと興味津々でした。でも、それは本来の目的じゃなかったんです。彼の目を見ると、彼の目の前で、近い距離で、面白いことが発生したように思われます。彼の表情を見ると、私の行為との関連性が分かります。この人と僕の距離は、光学の原理で計算できます。手前から奥までピントが合っているので、広角レンズ17mmを使って撮った写真だと分かります。伝統的な風景の撮り方では、真ん中の物体を写すことはもちろんできますが、そうすると周りの風景は写りません。背景を写真に入れることができない。望遠レンズで彼の写真を撮れることはもちろんできるけれども、彼と僕の間に他の人が入ってしまう。そうやって、カメラを首の後ろに固定するような方法でなければ、こういった面白い写真を撮ることはできなかったと思います。シリーズに写っている人たちの目は、当時の国民が政府を見る目と同じだと感じました。疑問があって、でもどうすればいいのか、といったような。左の人は僕のレンズに気がつかなかったかもしれない。たった1メートルの距離にいるのに。
当時、ただ他人の写真を撮っても仕方ないと思い、自分を写真に入れてみたくなりました。他人を使って社会の批判をしようとしましたが、自分も社会の一部として、一緒に生きているんです、と。今はiPhoneの自分撮りの道具がありますが、僕が80年代に一番初めにその道具を発明したと言えるかもしれないです(笑)。このシリーズは89年の4月までずっと撮り続けました。その後、天安門事件が起きていったん中止になりました。僕も、天安門事件の時期には、天津でデモ「去也」を企画していました。事件の後、「搖蕩的車廂(揺れ動くバス)」シリーズを発表しました。固まった空気を感じると思います。中国の社会の雰囲気はまさにこういった感じでした。バスに国民がみんな乗車して、座ったままです。もし運転手の運転がまずかったらみんな一緒に事故に遭います。
このプロジェクトが終わった後、耐えられなくて、絵描きの友達と一緒に都会を離れました。天安門事件の衝撃がかなり大きかったんです。しばらくの間自分を癒すため、チベットを4 年間くらい放浪し、いろいろと考えました。
1) 莫毅は当時まだ珍しかったカメラを首の後ろの襟の部分に置き、レンズを後ろに向けた。そして5歩歩くごとに1回シャッターを切った。これは「行走的方式(歩く方法)」というパフォーマンスアートで、そうして撮った写真から「1m 、後ろの風景」のシリーズができたと言う。この方法によって、前後の人とほとんど距離がない人ごみの中で、まるで自分の前には空気しかないというほど自然体の人か、あるいは不可解な表情を浮かべている人を撮ることができた。彼らは「なぜカメラをそんなふうにして見せびらかしているのか」と考えていたのかもしれない。その疑いの目は、すべての社会の信仰が破滅した表情そのものだった。「1m 、後ろの風景」は被写体を記録した作品であると同時に、被写体に自分のパフォーマンスが映り込んだ作品でもある。