それは父の癌を知って残された時間が長くはないと覚悟した頃か、それとも自分に子どもが産まれた頃だったか。私は癌に冒された人びとが集うという谷のことを知った。東北秋田、人里はなれた山奥にある玉川温泉。放射線を放つ岩がごろごろと転がるこの谷は地熱温度が高い。硫黄の臭いがする噴煙がいたるところからモウモウと立ち昇っている。目をこらすと灰色の岩場に点々と人が横たわっている。癌と闘う人びとは谷に飛びかう放射線と大地の熱をくまなく受け止めようと身を投げ出す。初めてその光景を見たときに私は涅槃図を思い出した。寝そべる仏陀を中心に十名の高弟たちが思い思いの格好で過ごす絵は、すべての煩悩が消え去って悟りが完成された最終境地を表すという。

 長く滞在して湯治する人びと。ここでは生い立ちや職業、貧富に意味はない。性別さえ薄らいでいるかのように見える。谷に立ち昇る噴煙に向かって歩いていく姿には、内に抱えた苦悩の気配は薄く、むしろ安寧なる世界への準備を感じさせる。谷を分断する川は現世とあの世の境にある「三途の川」を、湯治場の女中たちは「お迎え」を思わせ、夏の夜には亡きものを供養する「盆踊り」が延々と繰り返される。不安と期待の板挟みとなっていた私は、この谷に具現化された日本人の死生観を見た気がし、執拗に通いはじめた。

 私はひたすらそこに身をおき、とらえどころのない「際(きわ)」や「間(はざま)」を感じとろうとする。そして時には自分の鼓動を数え、時には父や幼い息子のことを考える。

―山縣勉、あとがきより

Artist Profile

山縣勉

1966年東京生まれ。慶応義塾大学法学部法律学科卒。公益社団法人日本写真家協会会員、公益社団法人日本写真協会会員。主な個展に「国士無双」(2012年禅フォトギャラリー)、「Thirteen Orphans」(2013年Colorado Photographic Arts Center/コロラド)、「涅槃の谷」(2016年禅フォトギャラリー、2017年gallery176/大阪)、主な出版物に『Bulgarian Rose』(私家版、2011年)、『国士無双』(禅フォトギャラリー、2012年)、『涅槃の谷』(禅フォトギャラリー、2016年)、新装版『国士無双』(Case Publishing & 禅フォトギャラリー、2017年)などがある。2018年にはAthens Photo Festival “Pale Red Dot” に参加するなど国際的に活動している。作品はニューメキシコ大学美術館、ディーアール・バウ・ダジ・ラッド・ミュージアム(ムンバイ)に収蔵されている。

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