過去10年間の倉田精二と私たちの関係を振り返る際に、私の脳裏に2つのことが思い浮かぶ。 まず、彼は私たちが対処しなければならない最も難しい人であった。 しかし、一方で私たちは彼のことを何でも許した。常に私たちは「彼は真のアーティストだ」と思っていたからだ。

倉田さんはめったに電話に出なかったし、eメールを使わなかったので、 彼をつかまえるのはほとんど不可能だった。彼とプロジェクトに取り組む過程で私たちにできる最善の方法は、彼の留守番電話にメッセージを残してただ待つことだった。 たいがいは数週間待たされた後にようやく打合せが手配される。 倉田さんはオートバイで街を走り回るのが好きだったので、私たちは彼が事故に遭うのではないかと心配した。しかし、ここ数年は彼の身体が衰えてきてオートバイに乗ることはあきらめたようだった。

倉田さんは人と協議することを好まず、いつも決断を下すときはとても緊張していた。 彼は自分の作品があまりにも大切で、時間をかけて注意深く検討しないまま決定することはできないと思っていた。 彼の作品があれほど驚異的でなかったら、彼が決断を先延ばしにしたり、そのことを言い逃れたりすることに誰も耐えることはできなかっただろう。 打合せが最終的に手配され、倉田さんは到着するなり意識の流れの赴くままに、自分の作品のことだけではなく、昨今の諸問題や、写真関係の団体や有名な写真家の多くから過去数十年間の間に受けた処遇に対する腹にたまった憤りについて捲し立てた。 彼は自分が運に恵まれず、また他者からそうあるべき待遇を受けてこなかったと感じていた。 1、2時間後、私たちの1人がその日の打合せの目的をおもむろにきりだすと、話の方向転換を図る間に倉田さんは聞いた質問を頭の中であたためて、また新たな話題を持ち出した。

写真©︎マーク・ピアソン
写真©︎マーク・ピアソン

彼は自分の作品が素晴らしいことを知っていて、もっと世の中に広く知られることを望んでいたが、それがどのように公開され見られるかという点におそろしく敏感だった。 生涯を通じ人間関係において明らかに彼は問題を抱えていた。私たちは彼が永続的で継続的な関係性に近いものを持った最初で唯一のギャラリーだったと思う。

倉田さんはいくつかの素晴らしい写真集を遺した。最もよく知られているのは彼の最初の写真集『Flash Up』だろう。しかし、それ以外も彼の個性が色濃く表れた名作揃いである。

『Flash Up - Street Photo Random Tokyo 1975-1979』 (白夜書房、1980年)
『フォト・キャバレー』(白夜書房、1983年)
『大亜細亜』 (ICP、1990年)
『80’s Family - Street Photo Random Japan ‘80s』(JCCI、1991年)
『トランスアジア』(太田出版、1995年)
『ジャパン』(新潮社、1998年)
『クエスト・フォー・エロス』 (新潮社、1999年)
『Trans Asia, Again!』 (Place M、2013年)
『Flash Up』 (新装版、Zen Foto Gallery、2013年)
『都市の造景』 (Super Labo、2015年)
『AKB80’s』 (Little Big Man BooksとZen Foto Galleryの共同出版、2016年)

Flash Up (白夜書房、1980年)
Flash Up (白夜書房、1980年)
Flash Up (新装版、Zen Foto Gallery、2013年)
Flash Up (新装版、Zen Foto Gallery、2013年)
『80's Family』(JCCI、1991年)
『80's Family』(JCCI、1991年)
『ジャパン』(新潮社、1998年)
『ジャパン』(新潮社、1998年)
『トランスアジア』(太田出版、1995年)
『トランスアジア』(太田出版、1995年)
AKB 80' (Little Big Man BooksとZen Foto Galleryの共同出版、2016年)
AKB 80' (Little Big Man BooksとZen Foto Galleryの共同出版、2016年)

そして、彼の遺作としてこの6月に私たちが出版する写真集がある。
『Eros Lost』(Zen Foto Gallery、2020年)

作品集に加えて倉田さんはたくさんの雑誌の仕事をした。『Friday』や『Focus』などの週刊ゴシップニュース誌のために撮影したり、80年代を代表する伝説的な雑誌『写真時代』において森山、荒木や彼らの仲間たちと共にソフトコア・ヌード作品を定期的に連載で発表した。 倉田のヌード作品は実験的で演劇的、風変わりでユーモラスだった。

すべてのアーティストに言えることだが、作品が彼ら自身を語るべきである。しかし倉田は、ストリートからスタジオ、ポートレートから風景まで、ほとんどすべてのジャンルを網羅する素晴らしい写真を撮ることができたし、それぞれのジャンルに必要な技術を習得し、新しい可能性と注目すべき光景で私たちを魅了した。『Flash Up』では、不良の喧嘩、バーで酔ってぼったくられるサラリーマンたち、大集合した暴走族のリーダーたち、交通事故の犠牲者、夜の仕事の準備をする女装者、彫物を披露する若衆など、彼は通りを徘徊し、あらゆる種類の動きを見つけ出した。彼はまた血管のように街を切り開く東京の高架高速道路のクールな写真を撮った。 『AKB80's』は一見すると説明のない野菜市場のシンプルな写真だ。積込所、トラック、箱、労働者がとりとめもなく農産物を移動している。それでも倉田は、ありふれたものを超えた何かを示すために、露出時間を延ばし、また露光を重ねることで、市場の進化と江戸の歴史におけるその重要性を呼び起こした。

『Flash Up』、おお寒い あれとこれとそのタコも。池袋、1976年 ©︎倉田精二
『Flash Up』、おお寒い あれとこれとそのタコも。池袋、1976年 ©︎倉田精二
『Flash Up』、戦士の休息!? 池袋・西武デパート前、1979年 ©︎倉田精二
『Flash Up』、戦士の休息!? 池袋・西武デパート前、1979年 ©︎倉田精二
『Flash Up』、100円玉落ちましたよ。池袋・東映通りキャバレー前、1975年©︎ 倉田精二
『Flash Up』、100円玉落ちましたよ。池袋・東映通りキャバレー前、1975年©︎ 倉田精二
AKB 80's ©︎倉田精二
AKB 80's ©︎倉田精二
AKB 80's ©︎倉田精二
AKB 80's ©︎倉田精二

倉田さんの作品には主題と技法に途方もない幅があった。 中判、大判、白黒またはカラー、長時間露光、フラッシュの有無の選択について、さまざまな被写体の写真を撮るのに最適な方法を彼は慎重に検討した。 この点で倉田精二という人は本当に職人でありアーティストだった。 東京藝術大学で絵画を専攻し卒業した倉田は、それでもエンジニアとして工房に通い、写真の外で生計を立てながら、ついには写真家となった。 でも何より倉田さんは真のアーティストであり、構想から実行、プレゼンテーションまで、常に思慮深く慎重であった。 彼は異端者だったが異端者の天才であり、私たちが共に働いた最も純粋なアーティストであることを、最も厄介な人物であるにもかかわらず私たちは常に認めていた。

写真©︎マーク・ピアソン
写真©︎マーク・ピアソン
倉田精二さんと写真家のジョン・サイパルさん、2014年 写真©︎マーク・ピアソン
倉田精二さんと写真家のジョン・サイパルさん、2014年 写真©︎マーク・ピアソン
倉田精二さんと写真家の布施直樹さん、2014年 写真©︎マーク・ピアソン
倉田精二さんと写真家の布施直樹さん、2014年 写真©︎マーク・ピアソン

Zen Foto Galleryの開廊からの10年間しか私は倉田さんのことを知らないが、最初はギャラリーへの不定期の訪問者として、そして『Flash Up』の新装版刊行に同意した後はより定期的に会っていた。 『Flash Up』は画期的な作品だ。 『Flash Up』のような本を生涯に一冊でも遺すことができれば十分だが、私は何があったのか疑問に思わずにはいられない。 倉田さんの厄介さは写真集制作に必要なパートナーシップの形成を妨げていた。 2013年版の『Flash Up』は1999年刊行の『Quest for Eros』から14年ぶりの出版だった。倉田さんはまだなすべきことが残っていることに気がついたようで、その後の7年間に5冊の本が出版された。 これには今年6月にZen Fotoから刊行する『Eros Lost』も含まれる。

倉田さんはエンジニアの世界と男臭い日本の写真界で働いた1945年生まれの日本人男性であるため、優しさや脆い面を見せることは基本的にはなかった。 しかし、私はかつて家での食事に彼を招待したことがある。 食事の後、私は彼を駅に案内した。 私の4歳の息子が倉田さんと一緒に歩き、彼の手を握った。 少し後、倉田さんは何十年も誰とも手を握っていなかったと言った。 彼にとって何か意味があることが起こったのだと私はその時確信した。 彼の人生の終わり近くに、彼が誰かの手を握ることができたことを願っている。

倉田精二さん、禅フォトギャラリーにて。写真©︎マーク・ピアソン
倉田精二さん、禅フォトギャラリーにて。写真©︎マーク・ピアソン

マーク・ピアソン
2020年5月


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