木格「塵」
『塵』がここで示しているのは灰燼。「生命の輪廻、どこから来てどこへと戻るのか、魂は魂をくださった神へと戻る。」
2009年『回家』の撮影も5年目に入り、私の三峡での撮影はますます少なくなった。現実に巻き起こる開発を目の前にし ては、黙って耐え忍ぶ故郷の人たちと向き合ってもただ無力を感じるだけだった。そして故郷に帰ってから次はどんな風に撮るべきなのかを考え始めた。ゆっくりと考えるため、大型カメラに換えた。最初はただ個体としての人間が現実世界にいるのを撮りたいだけだったが、その顔が希望と無力という矛盾に満ちていることに私は気付いた。
2010年5月に娘が生まれた。私の生活に対する認識は変化し始め、好んで 子供の眼を通してこの世界を理解するようになった。子供が遊ぶ方法、世界を見る方法というのは、好奇心から始まる。それからというもの私も身の回りの物に特別な興味を持ち、このような「静物」の写真を始めるようになった。例えば、花瓶の中の鉄線。鉄線は形を変え花瓶の中に置かれる。光が花瓶の中に当たると壁にその影が映る。美しくも残酷だ。ここから、日常生活の全てをゆっくりと観察するようになった。この世界を「愛し」にいくのであって、「冷やかし」にいくのではない。
大型カメラを使って現在の故郷についての考察をあらためてした時、現実世界の全ては我々の心の中の欲望から来たことに気がついた。自然に憧れながら、自然を壊し、また自然を修復する。因果の輪廻である。そして私は自然の中で、山、水、石の3つが最も変化しにくい物質であることをみつけ、時間と歴史が残した跡を見て自然の根本へと戻っていった。それはつまり荘厳と神秘である。以前は世界が怒りに満ちているのを見て、現実の全ては本当にひどいものだと思ったが、今は物を見るのが好きになった。物は自分の姿で存在しているだけであって、それはとてもシンプルな世界なのだ。
ー木格