山縣勉「国士無双」
ある日私は、公園の池のほとりで、スーツ姿の男と隣り合わせに座っていた。すると男は顔に化粧をし、花柄の振袖に着替えると、ラジカセから流れる演歌に合わせて満面の笑みで踊りだした。「一体何が起こったというのだ」、私は好奇心にかられた。そんな私に彼は、自分はもと日本舞踊の師匠で男色であり、癌を患っていることを語り始めた。別の日には、肌着姿でボロボロの自転車に乗る大富豪のおじいさんに出会い、また別の日は、鬼のように怖い顔をしているのにその実マザコンであるという男と出会った。その公園は上野公園(東京)で、池は大きな蓮池で不忍池と呼ばれる。そこに通えば通うほど、私は更にいろいろ興味深い人と出会うようになった。彼等の話に耳を傾けるようになった私は、彼等の写真を撮り始めた。
公園で出会ったそれらの人びとには何か不思議と私を引き付けるものがある、彼等の外見や彼等が語ること以上の何かが。注視する者をさらに引き付ける力、目に見えず音もさせずに人を引き付ける、磁力のようなものが。ではその磁力とは一体なんなのか、私の心の琴線に静かに触れる、彼等を注視する者の心に触れるその力とは。彼等の写真を撮ることで、如何にしてその力を捉える事ができるか、表現することができるか。このポートレート作品で私はこの問題を追究している。ポートレート写真の作品を観る者は、写っているのがどういった人達なのかを知りたがる。ポートレート作品において、写真家は被写体を様々なタイプに類型化して表してきた。アウグスト・ザンダーは被写体を階層や職業分類のもとに表わし、ダイアン・アーバスは社会で規範を外れ、特異と見做されている類の人びとに眼を向けた。そして鬼海弘雄は圧倒的な存在感を放つ人々を撮り続ける。私の作品でモデルとなっている人びとについては、類型化できない。ひたすら公園に通い、そこで出会う市井の人びとと時間を共にする。個々のモデルはその人固有の来歴や個性そのものがユニークで、如何なる類型やタイプをもってしても、彼等を類別したり、特徴づけたりできないほどだ。それはまるで、相反するものが複雑に入り組んでいる人間の性質、強さと弱さ、厳しさと優しさ、美と醜など全てが、一人ひとりの人間にありのままの形で顕現し、静かにその人特有の磁力を生み出しているかのようだ。この力を私は表現したい、それぞれのかけがえのない、還元不可能な唯一無二の磁力を。一人また一人と、私は人びとと語り合って写真を撮り、一人ずつ彼等のポートレートを作っていった。作品は「国士無双」と名づけた。そして私はこの作品をこれからも続けていく。
ー山縣勉