西村多美子「舞人木花咲耶姫」
木花咲耶姫ー本名すぎえすみえーに初めて会ったのは、一九七九年十一月、井の頭公園(東京吉祥寺)である。人けのない公園で踊っていたのだが、その激しい動きに、私はてっきり男性が踊っているのだと思った。神懸かり的にも見える踊りの後、化粧を落としながら話す姿は、まるで少女のようで、とても同じ人物とは思えなかった。
木花咲耶姫の東京での生活は、週一回、街中の不特定な場所で、土曜日は井の頭公園で踊っていた。他にも絵のモデルをしたり、帯を縫ったりして暮らしていたが、一九八〇年四月末、子供二人(四歳、二歳)を連れ、全国各地の神楽を訪ねる旅に出た。その旅に私も同行することにした。
かわきりは、木花咲耶姫を祀ってある富士吉田(静岡県)の浅間神社で舞を奉納することである。母親が舞う神社の神楽殿の下では、子供達がハーモニカを吹き、舞に見入ったり、走りまわったりしていた。人との出会いの中で一番密接なものは、子供との関係だと言う。幼い子を旅に連れ歩くのは、当然のことなのだろう。
五月、諏訪大社(長野)で七年に一度行われる御柱祭を訪れる。地元の人の協力もあって、祭の当日に拝殿で舞を奉納することになった。知人宅に身を寄せ、朝五時にむずかる子の手を引いて、諏訪大社へ向かう。奉納の舞は、特に動きが少ないのだが、彼女の舞は以前に比べて跳ねることが減り、指先の微妙な動きが目につく。
この年の御柱祭は初夏のような陽気で、子供達は暑さのせいか疲れきって、人混みの中のゴザの上に眠ってしまっていた。その傍らに彼女が座り「考えていた御柱祭とぜんぜん違う!」と言う。もっと小さい村祭りのようなものを想像していたのだと思った。
祭の終った夜、子供達が寝静った後、宿を提供してくれた知人から地酒をご馳走になる。翌日、子供達は旅慣れないせいか、朝からかわるがわるに泣いた。朝食を終え、祭の後の雨の中、諏訪湖へ向かった。彼女は湖の対岸を指差しながら「二人の子供を産むために、二年間、湖岸の家に住んでいたのよ。まるで世間から身を隠してたようだった」と語った。子供達は夢中で湖に石を投げている。その姿を見ながら、諏訪滞在は祭り中心で忙しなく過ぎていってしまったが、これからは子供のペースに合わせ、のんびりと神楽や祭を訪ねる旅をすると彼女は言った。
翌日、母と子供二人は、リュックサックを背負い、松本へ旅立った。
ー西村多美子